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[歴史] 5分でわかる「バターン死の行進」



平成22年9月13日、岡田外務大臣が「バターン死の行進」について公式に謝罪しました。

はたして謝罪する必要があったのでしょうか?



■「バターン死の行進」とは

・昭和16年12月、日本軍のフィリピン攻略戦が開始される
・ルソン島バターン半島のアメリカ・フィリピン軍(米比軍)と日本陸軍の間で戦闘開始
・米比軍の籠城戦となり、勝負がつくまで四ヶ月におよんだ(4月9日 米比軍降伏)
・決着がついたとき、米比軍は病気が蔓延し栄養失調の兵隊が多数
・敵味方ともマラリヤ、デング熱、赤痢が蔓延していた
・上記理由により途中で倒れて死ぬ人間が続出した
・このような状況で捕虜を移送したため、死者が続出した


これがいわゆる「バターン死の行進」というように呼ばれるようになりました。



■日本軍が捕虜を移送しなければならなかった理由と状況
・次の戦闘(コレヒドール攻略)を目前に控えていた
・移送しなければ、米比軍の砲爆撃によって捕虜や先住民が犠牲になる
・移送のための装備(トラックなど)を殆ど持っていなかった
・病気や栄養失調でも捕虜を自力で歩かせる以外の方法がなかった
・日本軍も捕虜より重い装備を持ちながら徒歩で同行していた
・日本軍は炊き出しをして一緒に食事をとりながら共に移動していた



■当時の記録
防衛庁防衛研修所戦史室
「戦史叢書 比島攻略作戦」より

 降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリアの流行とのため極度に衰弱していたが、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。
 しかも米比軍の降伏が以外に早かったため、これら捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を行なう余裕もなかった。当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状態であった。したがってこれら捕虜もいきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった。

 (中略)

「死の行進」に関し和知参謀長は、要旨次のように述べている。

 元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。

 バタアンの比島軍の捕虜は五万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだのが約二~三万は数えられ、合計八万に近い捕虜があった。一月から四月まで、かれこれ三ヶ月半も、バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。

 捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。全行程約六十数キロあまり、それを四~五日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである。

 (中略)

 むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリア患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれば、彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。

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